ナラティヴ実践地図 気づいたことメモ ~序章~

最近、マイケル・ホワイトの「ナラティヴ実践地図」(金剛出版)を読み返し始めた。読み返すといっても、最初にこの本を読んだのは、修論を書く前くらいなので、もう4,5年前のことだ。当時は質的研究の文脈での「ナラティヴ」という言葉がなじんできていたが、「ナラティヴ・セラピー」というものが具体的にどんなものかは全くといっていいほどわかっていなかった。

ただ、当時、メインストリームの方法として教えられていた実証主義的アプローチとかがしっくりこなくて、そうでないものへの意識は持っていた気がする。そんなときに「ナラティヴ・セラピー」という言葉の響きでひっかかり、マイケル・ホワイトという名前を知ったのだと思う。

図書室で本を手に取って、なんとなく表紙がかっこいいなと思ったのと、少し読んでから、読んでおかないといけないような気配を感じたのは、ぼんやり覚えている。

とはいうものの、当時の自分には全然読めず、「ナラティヴ・セラピー」という響きへのあこがれみたいのがあったので、なんとか読み切るだけ読み切ったという感じだった。あとは、「行為の風景」「アイデンティティの風景」という言葉だけは頭に残っていた。

まさか、5年後にナラティヴ・セラピーを学びにニュージーランドまで来るとは…

いったん読みはした、ということで後回しにしていたのだが、「物語としての家族」「ナラティヴ・プラクティス ~会話を続けよう~」「セラピストの人生という物語」と翻訳されたマイケルの本で持っているものを読み漁ってきて、なんとなくまた読むタイミングに来たような気がして、ここ1週間くらいで読み返し始めている。

5年前は、内容なんか頭に入ってこなかったのが、今はいたるところでいろんな発見があるので、そういうのがただ流れていってしまわないように、引っかかったところをメモしていこうと思い、それならアセンブリに投稿したらモチベーションにもなると思ったので、ぼちぼちそんなところを書いていく。

 

・序章

短いけれど、序章も、ナラティヴへのマイケルの姿勢の表現に触れられるので非常に魅力的だ。マイケルは、ここで本書を、治療的会話に関する「地図」を提供するものだと言っている。ここで、なにを「地図」という言葉で表現しようとしているのかは、まだ言葉にしきれないし、本書を最後まで読んでから言及した方がきっといいだろうと思う。

ただ、それを置いておいても、差し当たっていくつか、今の自分の耳に残っていく言葉がある。

 

「治療的会話の文脈において、人々は決まって、目標を修正したり、突然重要となった目的を採用し、はじまりには予測することもできなかった変化を生み出す。」

「目的地は、旅に先立って特定されることはないし、ルートもあらかじめ決められない。」

「治療的会話には、順序があるわけではないし、人々の表現に先立ってそれに対する自分のやり取りを決めておく努力など、一度もしたことはない。」

 

特に、初めて来た人と会話を始める前は、何が起こるかもわからないので当然不安になる。「不安」よりも、もう少しポジティヴな言葉で表現できるものもある気がする。でも、単純に「あーどんな話が来るんだろうなぁ。とりあえず聞いてみないと何にもわかんないなぁ」という感じに近いかもしれない。

「人々の表現に先立って、それに対する自分のやり取りを決めておく努力など、一度もしたことはない」という言葉は、少しこの状態を抱えておくことの助けになる力強さを感じる。

それに、地図や質問のアイディアは持っておくことはできるし、それをちゃんと磨いておくことがセラピストにできることでもあるということは理解している。そうしたアイディアを磨いて持っていることと、それがこれから起こる会話にどのように結びついていき、どんな展開になるのか分からない、ということとは異なる次元のことである。

 

それと、もう一つ耳に残る言葉がある。

 

「もうひとつ忠告しておきたいのは、馴染みのないセラピストにとって本書の地図は、最初、使うのに腰が引けたり、ぎこちなかったり、いくらか乗り気でなかったりすることである。十分予想されることだ。治療的会話の新しい領域に入る時、そのような領域になじみ、このような探求に関連した技術を磨くには、かなりの時間がかかる。鍵は、一に実践、二に実践、三、四がなくて、五に実践である。」

 

最近少し、ナラティヴの会話について、「馴染みがない」というところからは抜け出せてきているような気がする。その感触が確かめられたのは実践においてだと思うし、感触がなじむくらいに言葉の使い方を繰り返したのもやっぱりプラクティスにおいてだと思う。

こちらで出会ったナラティヴセラピストは、合言葉のように「プラクティス、プラクティス、プラクティス」ということがあるのだが、多分このことを言っているのだと思う。

 

「私が自分自身の実践を終わりのない見習いだと見なすのは、有効な治療的会話への貢献において完全に満足する場所にたどり着くことなどないと知っているからである。」

というのも、心にとどめておきたい。