「耳の調律」ワークショップについて

4月5日(日)NPACC主催、オンラインでの外出自粛時期特別ワークショップ(その2)「耳の調律:ナラティヴ・セラピーのリスニング」と、その1週間後の12日(日)に小さなグループで行われたWSに参加した。「耳の調律」とは、ナラティヴ・セラピーのリスニングについて、ジム・ヒベル(ハイベル)&マルセラ・ポランコが書いた論文であり、それをKOUさんが日本語訳して下さったものである。2日間を通して「これはどういうことなんだろう?」と考えている自分がいる。頭の整理のために、少しの覚書として書き留めておきたい。

この体験を伝えるためには、「耳の調律」のプロセスを少し説明する必要があるかもしれない。構造としては①話し手、②聞き手、③マッパー:マップする人(インタビュアー)が登場する。スーパービジョンなどの場では①がクライアントにあたる。②はカウンセラーとか対人援助職である当人であり、③がスーパーバイザーとなる。今回のWSでは、①の話し手は実際の人ではなく、体験談を語っている文章やYouTubeを用いて行っていた。我々参加者は①を見たり読んだりしながら、まずは②の聞き手となった。デモセッションではKOUさんが③マッパーの役割をとり、「耳の調律マップ」に従って②の聞き手に質問していった。

5日は、ある体験談を読んで、それぞれがどんなところに着目したのか、またはどこが印象に残ったのかをまずは定めた。そしてそれを“どのようなストーリーとして聴いたのか”を確認した。デモセッションでは、聞き手自身が何を大切にして話を聴いたのかについて、マッパーからのインタビューに応える形で語られていった。それはまるで、大切にしたいことが2人の間で目に見える形となり、優しく目の前に置かれていくような過程であった。会話を通じて、誰も責められることなく「可視化」されていくのを目の当たりにした。このことは、スーパービジョンではもちろんのこと、例えば対人援助職同士の対話の場においても、話し手が責められることなく、自分の大切なことに気づき、それを語るということを可能にするかもしれない、と思った。そして、そのプロセスが「マップ」という一定のやり取りで示されていること、すなわちやり取り自体も「可視化」されることで、誰しもがアクセス可能なものとなっていることの重要性も感じている。

12日は、いくつも役割を体験することができた。5日のようなデモセッションを見たあとで3人組になり、②聞き手、③マッパー、④コ・マッパー(マッパーを助ける人)を、順番に3回行った。ここでの体験は、想像していた以上に体感を伴ったかなりの衝撃として残っている。特に、自分が②の聞き手になった体験について詳しく書いてみたい。

マッパーに尋ねられて話していると、「ここで語っている主体は誰なのだろう?」と思い始めていた。語っているのは、聞き手自身のことなのか、話し手についてなのか、という点である。話し手から聴いたことから浮かび上がってくることについて語るので、聞き手自身について語っているつもりなのだが、さて、どちらについて語っているのか、少し立ち止まって考えないとごちゃごちゃしていく感じがあった。ここでの会話が誰のものなのか。よくわからないが、どちらのものというよりも、混然一体となるような状態があるのかもしれないと思った。

そしてその先に、話し手と聞き手が離れていくプロセスがあるのではないかと、いまは考えている。具体的に述べてみたい。話し手の話をストーリーとして聴く前に、自分が着目したところをまずは取り上げた。自分がつい注目してしまう部分である。そこに目が向いたからこそ、見えてくるところがある。それをつなぎ合わせると、ストーリーライン(線)が浮かび上がる。するとそこからテーマ(流れからの主題)が見えてくる。この過程をナラティヴの比喩として例えてみると、星をつなぎ合わせていった結果、見えてくる星座のようなことかもしれない。すなわち、たくさんの星があるにも関わらず、星座として認識している時点で、すでにある種の解釈が入り込んでしまうことを物語っている。

この「話し手のテーマ」としてわたしが取り上げたことは、後になって「自分のテーマ」であったことに気がついた。しかしこの時にはそうとは思わず、話し手のストーリーとして聴いていた(つもりだった)。「これは自分のテーマなんだ」と理解し受け止めるためには、それ以前に自分が大切にしていることについて語る必要があったように思う。自分が大切にしている価値観や信念がどこから来ているのか、自分自身の体験として語る機会が得られると、「自分にはそのような体験があるからこそ、ここを大切にしたいんだ!」と確認することができた。大切にしたいことを理解するプロセスを経たことで、話し手の語りの中に、自分の価値観とは異なる別の側面がやっと見えてきたように思う。それは「聞き損なったかもしれない側面は?」という質問によって、促進される。聞き損なったこと、見えていなかったことが、ようやくここで見えてくる。ここまで来てやっと、話し手と聞き手が離れていくのではないかと考えている。そうすると、語り手の文脈は自分の好みとは異なる可能性が出てくる。しかしそれはそれで、話し手が価値を置いているが自分の好みとは違うという文脈として、理解できる、受け取れる、という次元に開かれていくのではないかと思う。自分の価値観と異なる価値観を受け取るということは、言うほど簡単ではない。しかし「耳の調律」のプロセスを経ることで、それぞれの聴く力に広がりを与えてくれるような可能性を感じている。

また、このプロセスを進めるマッパーの姿勢にも注目したい。時にスーパーバイザーや教師などが、「聴き方」について教える立場を取る場合があるかもしれない。しかしここでのマッパーはそのような立ち位置にはいない。マッパーもまた、価値観や信念を持つひとりの人として扱われていたように思う。すなわち、話し手も聞き手もマッパーも、それぞれが人として大切にしたいことが尊重され、丁寧に扱って貰えるような姿勢である。これは例えば、セラピストである職業生活と一生活者でもある在り方とが一致していくような、大袈裟に言えばひとりの人生が一致していくようなことにつながるように思う。人生が枯渇していかないためにも(“解毒剤”のように)、この姿勢はとても重要なことだと私は感じている。

WSの続編があるとするならば、実際に話し手と聞き手で会話し、その聞き手に対してマッパーがインタビューをしていくような構造で行うことが可能かもしれない。今後また「耳の調律」WSに参加できることを、今からとても楽しみにしている。