「ナラティヴ・セラピー発祥の地ニュージーランドで感じ、学ぶナラティヴ・セラピー・ワークショップ 2018」を2018年4月29日(日)から5月4日(金)に、ニュージーランドのハミルトン市で開催しました。
今回は、参加者18名、ポール&エルマリー基金による奨学枠で2名、そして、NZハミルトン市に滞在する日本の臨床心理士が3名参加しました。
ワークショップに対するフィードバックをいただいておりますので、ここにシェアします。
II.
ニュージーランドでワークショップに参加したことは、どのような意味があったのでしょうか?
新しい人との出会い、コミュニティの創出と拡大、今後の援助職としてのあり様に影響があり、意味がありました。
いつもと違う場所・時間の流れの中でナラティヴのことだけを考えていられることに意味があったと思います。食べるものも、話す人や言語も、見る景色も違う…慣れない事と共に経験すると、強烈な印象を残します。
様々な場面で、繰り返し話したように、やはり、そこに、行った人にしかわからない、補足説明の、域でもなく、感覚として、自分の中に、とても、スムーズに、しなやかに、奥深く広がりもあり、学びが、浸透した感、満載でした。
講師の先生はもちろん、通訳の、紫さんはじめ、スタッフ、ボランティアの方々や、歓迎のセレモニーに参加してくれた、大学生の皆さん。
バンクに、かけつけてくれた、国重先生のお友達と、息子さん。
そして、本当に、始まる前から、ずっと、ずっと、不安を解消してくれるような、細部にわたっての、連絡の、やりとり。そちらの生活での、きめ細やかなサポートと、盛りだくさんで、中身の凝縮された、研修を用意してくださった国重先生の、気遣いやら、心配り。
本当に、有り難く、感謝しかありません。
そして、今回出会えた、参加者の皆さん。
様々な役職の方々が、勢揃いで、始めは、わたしなどが、この場にいて、いいのだろうかと、戸惑いも、ありましたが、時間を共有していくなかで、比較的、はやいうちに、わたしの、心配は、払拭されました。
学校という、特殊で、閉鎖的な中に居る私にとっては、本当に、ほかの皆さんの、すごさを、間近で観たり聴いたりして、かなり、刺激になりましたし、なんとなく、 共通項も、自分なりに、確認できた、感じです。
本当に、私の人生の、後半に、あの震災を機に出会えた国重先生からの、広がりで、ここまでこれて、感動しております。
ものすごく、意味がありました。
・ナラティヴ・セラピーに流れている根幹に触れることができたこと。それをわからないなりに、多少なりとも(日常に流されずに)保持する時間が取れたこと。
・集中してナラティヴ・セラピーに浸ることができたこと。文献で読んでもわからない(読み進められない)部分をカラダで感じ受け止めることができたこと。
・同時に、4人のナラティヴ・セラピストに違う角度からナラティヴ・セラピーを語っていただいたので、ナラティヴ・セラピーの多様性というか、「私の捉えるナラティヴ・セラピー」とは?についても選択肢が増えたこと。
・社会構成主義について(これまでは、敬遠していましたが)理解を深めることができたこと、ここがあってのナラティヴ・セラピーなんだと強く思いましたし、少しばかり理解が進んだことで、自分自身についてまた少し知り、解放された部分もありました。
・こうさん、ゆかりさん、サポートスタッフ、ボランティアのみなさんのいる恵まれた環境で穏やかな日々を参加仲間と共に過ごすことができ、心の保養になったこと。
複数ありますが,第1に自分自分のことを見つめる時間になりました。次に,ナラティヴ・セラピーについて他者に少し語ってもいいかなと思えるようになりました。
ナラティヴ・セラピーを実施していく上で、How toではなく、その哲学というか、その理念が、実感として少し理解できた… ような気がします。
日本とは違う環境、しかもニュージーランドでのワークショップであるがゆえに感じた自然との共生や祖先と自分のつながりを意識できたこと。マオリの方々との出会いで、歴史の一部を知れたこと。日本での立場・役割をとっぱらって一人ひとりがありのままの自分でいられる環境を作っていただいたこと。
自分にとっての非日常に「どっぷり漬かる」という事に大きな意味があったように感じています。
ニュージランドであったこと、7日間という長期間であったこと、そこに集まった人たちと過ごした事、初めて会う講師のみなさん、全部が自分にとって非日常であったわけですが、ニュージランド滞在中はそれが日常になっていました。滞在中は自分にとっての非日常が日常になり、日常であったものが非日常となっていたということです。
これは、自分に入力される情報の認知過程で大きな影響があったのではないか?と考えています。ふだん自分が見聞きする事は、自分が理解することに得意な比較対象と比べて理解が進むと私は考えています。私自身ですと「森田療法・NVC(非暴力コミュニケーション)・TOC-TP(TOC思考プロセス)」といったものです。それらと比べて似ているとか違うとかしながら、ああでもないこうでもないと、見聞きした事を味わっているわけです。
うまく説明できないのですが、ニュージーランドに滞在中は「その認知の過程の向き」が違ったように思います。
たとえばフーコーが語っていた内容について考えるとき、日本での日常では「外部から入ってきたフーコーの話」を、自分が持っているものさしである森田療法などと比較して理解する感じなのが、「自分の中にあるフーコーの考え方を基本に」そこへ森田療法の考え方を招き入れる感じです。
この違いが何を結果として生んでいるのか?については別途考えてみたいところです。
とても不思議だったのですが、座学がメインだったのにもかかわらず、最終日に臨床やりたいなぁという気持ちが自然にわいてきました。今振り返ると、きっとそれは、講師の先生方も参加者の皆さんもそれぞれ出身も専門も対象のクライエントさんなども全く違うのに、私の仕事の話をじっくりときいてくれたからかと思います。普段は、自分自身がやや特殊な領域で仕事をしていることもあり、他の支援者の方にも仕事の内容についてうまく理解してもらえないことがある上に、なんとか説明ができたとしても「へー、すごいねー」という単調な一言で片づけれることが多かったように思います。しかし、この場では皆さんが最後まで私の話をきこうとしてくれたと感じました。そして、気持ちよく「頑張ってるんだね」「すごいね!」と言ってもらえたことは、じんわりと心があたたかくなり、ふっと肩の力が抜けるような体験でした。そしてまた、こんな風に相手に関心をもってもらい、大事にされ、最後まで話を聞いてもらえるという経験は、私自身が日々お会いしているクライエントさんにも感じてもらいたいことだったのではないか、とも思います。このようないくつかの心のうごきや気づきがあったことが、このニュージーランドでのワークショップの意味だったのかなと思います。
自分のあり方と向き合いました。
自分と向き合い、自分と対話し、自分を許し、これまでの自己概念を一旦手放し、再構成する手がかりを得たと感じています。
現地に行ったからこそ「体感」できたものが沢山ありました。きっとそのような体感の積み重ねが、日本にいるときとは異なる角度からナラティヴやそれ以外のことを考えたり、自分を省みたりする環境を作り出してくれた気がします。例えば、現地でマオリ族の歴史・文化について話を、マオリの方や講師から直接聞いていくうちに、沖縄やアイヌの人たちを思い出していました。日本でマオリ族に関する文献を読んだときにはそこまで考えが及びませんでした。ハミルトンを訪れ、そこでジェニー先生の講義を受けたことにより、私の中で相互作用が起こり、「日本」を客観的にみることが出来たのだと思います。
日常と離れ、離れたことでできるゆとり、そして毎日との違いをじわじわ感じる時間。違いに気づき感謝の気持ちが湧いて力をもらう。この活力の意味は大きい。
上述のようなことを思った結果、自分に対する姿勢も変わりました。いつも萎縮して、自分を矮小化するような、苦しい感覚から逃れられなかったのですが、相手を尊重することが、自分のことも大切に思うことにつながり、自分の人生の意味に対する見方に変化が起きたと思います。こうやって自分は生きてきた、というこれまでの人生をしみじみと振り返る気持ちになりました。
1回目と2回目では明らかに自分に対する見方が変わったと思います。