表現することにしたことのそばにある多くのこと

はじめまして。Hikaruです。
学生相談の領域で大学生たちとナラティヴ実践しながら、春や夏にナラティヴの翻訳をしています。
この連休中、ニュージーランドではワークショップで受け取ったばかりのあたたかいものを言葉にしてくれていて、1年前に私自身が参加したときのことを思い出させてもらっているところです。
先日のことを言いたくなりました。新しい友人を訪ねたことにまつわるあれこれをSNSにアップしたつもりがタイムラインに反映されなかったので、間違えて消してしまったのだと思いもう一度書いてアップしたということがありました。もう一度同じことを書こうとするのですが、これが驚くほどうまくできなくて、結局は二度目は二度目で書きたいように書いて、最終的に話の重点も締めくくり方も微妙に違ったものになってしまいました。
表現することにしたことのそばにあまりにも多くのことがあるものだなと感じました。いくらでも違った締めくくりになりそうでしたし、口に出しているからといって全く固まったことではないなと感じました。相談に来ている人が伝えてくれていることも多分そうで、特にカウンセリングの場では、カウンセラーが何を質問するかということがものすごく大きな影響を及ぼしながらそこで語られることが決まっていくので、相談に来た人が行きたい方向へいけているか、話したいことが話せているか、もっとまめに確かめようかなと思ったし、最初のうちはなるべく狭いところだけにとどまらずに、色々な方向から質問するように気をつけようと思ったりしました。
一生懸命元の文章を再生するのは悪あがきだったかもしれません。いったん語ったら、私はもうそれを語った自分としてそこにいるわけで、最初に書いたことはもう済んだというか、ちょっと違った方向を向いてしまっているという感じがありました。
ナラティヴでは、その人がその時そのように表現した、ということをとても大切にすると思うのですが、同時に、その次の瞬間にはまた違う表現があるかもしれないということも当たり前にしているのがとても好きなところです。今ここで表現してみるとしたらこういうことかもしれない(ちがうかもしれないし、明日になったら変わるだろうけど)、という気軽さで話し合っていけたらいいなぁと思っています。そういう気楽さがそこにあってくれるかどうかはカウンセラーの工夫のしどころだと思うので、そこは実践を積み重ねていきたいところです。
ちなみにこの辺のことは、私は本を読むより人から教わることで腑に落ちました。それから、こんなときにはこうする、というようなちょっとしたことが、どれも大きなナラティヴの世界観とつながっていることの実感がすーっと湧いてきたのも多分人からです。昨年ワークショップに参加してよかったなあと思うのはこういうところです。
NZのことを懐かしく思っていたら、連休が終わろうとしています。。。
今日のところはこれで。。。