書くことに響く多声3

「写真から物語を」-見る目を鍛え、聴く耳を育て、世界を立ち上げる

第2回サポーターズ・ライティング・プロジェクトは「写真から物語を」。参加者はそれぞれが選んだ写真とそこから書き起こされた文章(600~1200字)を持参し、読み合いました。今回のこのトレーニング形式は、ナラティブ・メディスンでいわれる<配慮attention・表現representation・参入affiliation>のらせんがグループ・プロセスにおいて多重に実現することを再確認する時間になりました。
写真から記述を進めるために、書き手はもう一度それを注意深く(attentive)見直します。そして、表現しようとする段になって、しばしば「書こうと思っていたわけではないことを書いている」ことに気づきます。書く=表現するという行為自体が、写真の見え方あるいはそこにある世界の理解を発掘し、押し広げ、創造していく。そして、その営為を通して、立ち上がった現実により入り込み、結びつく(affiliation)ことが可能になります。
文章作成において、どのような表現を採用するか―人称、時制、文体、比喩、語り手と主人公など-は決定的に重要です。それがストーリーを駆動し、現実を切り出します。患者の皮膚の色を「ほおずき」と書くときその赤味はリアルに迫り、「A」と記号めいて称されることで不思議な魅力が祖父にうまれ、「未来に使命をもつ者は、苦しみを受けます」という箴言めいた強いことばがそのまま引用されることで、与えられた試練とそれゆえに深く支えられた主人公の状況が伝わる。そのように書けるということは、それを見ることができているということであると同時に、書かれたものはその視界を超えていきます。

生まれて間もない長女を抱く若い父親であった自分の写真を選んだ参加者がありました。自身の経験から子をもつことをためらい悩んだ時期があったことが触れられている文章。意図してこの1枚を選んだわけではなかったのに、なぜかこのことを書いていた、と書き手は語ります。
父と子が真っすぐに視線を結び合い対話をしているかのような、幼子の力強い意志的な眼差しが印象的なその写真は、親が子に向ける慈しみだけではなく、むしろ子が父を励ましているようにも見える。親の不安や非力を、子は全身全霊で赦し支えているのかもしれない―文章の表現・トーンと写真はリンクし合い、<子が人を親にする>という普遍のストーリーが響きます。そのように話しているとき、別な参加者が「子どもの産着の白が際立ちますね」と指摘しました。たしかに、この写真と文章から伝えられるある種神聖な世界に、その白は大きく貢献しているのです。それをしっかりと見る=捉えることができるということ。
あるいは、飼い主の都合で住処を移すことの多かったある犬の人生(そう呼びたくなるような文章でした)をめぐる書きものがありました。その犬の最後の旅を映した写真とともに読み上げられた文章からは、犬と飼い主が互いに敬意を払い合うような関係が伝わってきます。この時、ある参加者は、その最後に訪れた場所が原発のある過疎の進んだ地であったという表現を捉え、言及しました。確かにこの文章から感じられる犬、飼い主、その関係性のどこか自立的で相互尊重的な雰囲気は、その描写の選択によっても支えられていました。
グループ・トレーニングで他者の文章を耳で捉えることを繰り返すうちに、参加者の耳も鍛えられます。文章全体のトーンや表現の細部に対して、豊かなリフレクションが重なっていく。微細なものを聴き逃さないということ(配慮・注意深さ)とことばにすることができる(表現する)ということは、クライエントと出会いその話を聴くという私たちの仕事とパラレルなのです。

サポーターズ・ライティング・プロジェクトは、文章修行ではありません。でも、支援職のトレーニングに「書くこと」は有効です。
クライエントを観て、その話を聴く。そこから様々なことを感じ取っていたとしても、それがことばにできなければ=表現できなければ、その世界を理解しているということにはならない。臨床者には、そのような厳しさが求められるはずであり、「書くこと」は自分の見ているものを(その限界も含め)明らかにし、それを共有することを可能にします。ナラティヴ・セラピーにひきつけて考えるならば、それがことばにならなければ、「質問」することはできないでしょう。
そして、冒頭に戻り繰り返すなら、その理解は到達点ではなく、クライエントの世界に参入しその都度立ち上げるための不断のプロセスに過ぎません。「書くこと」は世界を描写するのではなく、世界を生み出す<違った語り方>のひとつに他ならないのです。