ワークショップを企画するにあたって(その3)

「その1」では、ニュージーランドにまでくることの理由として、ナラティヴ・セラピーとはこのようなものだということを、ナラティヴ・セラピーを実践している人はこのような人たちである、ということを感じることによって(のみ)、可能であるからかもしれないということを書きました。
「その2」では、ハミルトンというこぢんまりした街の中で、ニュージーランドの生活に触れながら、研修をすることの大切さについて書きました。
今回は、非構造化された語りについてです。

3.非構造化された語り

ニュージーランドでのナラティヴ・セラピーの研修は、初心者のための入門コースではありません。ナラティヴ・セラピーのイントロダクションもありますが、ナラティヴを応用的に活用した実践例、理論的な説明、ナラティヴの質問術について、それなりに手応えのある内容になっています。
ナラティヴ・セラピーをそれなりの期間取り組んでいる私も、何回聞いても、講義で新しい発見や気づきがあります。そのためか、一回ならずとも、何回も参加する人もいるぐらいです。
このぐらいの講義になると、誰も十分に理解したとは言えません。一方で、誰もが何か感じ、理解し、気づくこともできるのです。(このような側面のある講義はいいなと思うのですが、どのような要素がこのような側面を作り上げているのかについては、まだよく理解できていません。そのことについてもう少し検討する必要がありそうです)
さて、ナラティヴ・セラピーを理解していくと、その人が自身の言葉で語ること、そして、他者が同じように自身の言葉で語ることの意義に気づくことができます。
つまり、聞いたこと、見たこと、感じたこと、考えたことを、しっかりと自分の言葉で語るということを通じて、そして、同じようにする人の語りを聞くということを通じて、自分が得たことが何かということが、より具体的で、意味深いものとなっていくのです。
参加者をこのようなプロセスに誘うのは、この研修が初心者向きではないという位置づけが有効に作用していると思います。ワークショップのオリエンテーションで、内容は手応えがあり、容易には分かるようなものではない、と言うことを伝えます。そして、そのため、すべてを知っている人はここにはいないのだということ、つまり誰もが分からないことがあるという立場についてほしいと言うことを伝えます。
そして、ディスカッションに入るのですが、ここでキーとなるところは、構造化された振り返りではなく、非構造的な語りが大きな意味を持っていると、何回かすでにおこなったナラティヴのワークショップを通じて、理解できるようになってきました。
非構造的な語りとは、特別なファシリテーションを必要としないものです。このような語りは、要はどこでもできるようなおしゃべりです。
当然、私たち普段のおしゃべりは、それほど建設的でもありませんし、必ずしも学びにつながるというわけではありません。しかし、この場においては、ナラティヴ・セラピーに興味を持っている人が集い、そのことに対する知的な刺激を受けているという文脈がしっかりあるのです。そのため、「ほっておいても」そのことをめぐって話すということだろうといういうことを、つまりここに集まった人々を信頼していいのだと思ったのです。

すると必要なことは、人びとが十分に語り合える時間と場所を確保してあげるだけになるのです。下手なファシリテーションや解説などいらないということでしょう。
このワークショップでは、講義ごとに、約二時間の振り返りの時間を設けています。そこでは、小グループになって、お互いに語り合うのです。その様子を見ていると、いくらでも話し続けられるような熱気を帯びた語りが延々と続くような感じです。
その上、休憩時間と昼休みを十分に確保しています。午前と午後に、ニュージーランドのお菓子をタップリ用意して、30分の休憩時間を確保しています。また昼は、街に出て食事をする必要があるので、90分を確保しています。この「間(ま)」に、非構造的な、しかしたいへん生産的な会話をすることができるようなのです。ここで生産的とは、何か具体的なものをつくるというと意味だけでなく、理解や意味づけを促進するという感じででしょうか。

このワークショップに対するフィードバックは、たいへんよいものをいただいています。これは、たぶん講義の質だけのことではなく、このような、それぞれが十分に自分の言葉でしっかりと語り合える構造が貢献していると、今私は信じ始めているところです。

現時点で次にどのような話題でこのトピックを書くことができるのか分かりませんので、思いいたら続けたいと思います。