カウンセリング技術を積み上げていくために

ナラティヴ実践協働研究センターで、ナラティヴ・カウンセリングの提供を始めました。ここでの取り組みはいろいろなことを考えるきっかけになっています。

そのひとつは、あるグループ、組織、職能団体、または学会において、そこの人々の技術をどのように積み上げることができるのだろうかということです。

たとえば、サッカーや野球を見ると、徐々にその技術は向上しているように感じます。プレーヤー自体は入れ替わっているのですが、場としてその技術を積み上げることができていると言える気がします。

対人援助職の援助技術はどうなんでしょうか。場として、技術が積み上がってきていると、楽観的に言えない気がしています。この点について、結構悲観的な気分が私を支配してきます。ここで、歩みが早い遅いというのは、問題ではありません。亀の歩みのように遅くても、徐々に積み上がっていくことができるサイクルができれば、何年かの間に、数十年かの間に、相当な技術を積み上げることができるはずです。

ところが、そのようなことが起きていることが感じられないのであれば、それに必要な何かがないということになります。何なんでしょうか。何がないのでしょうか?

ひとつには、フィードバック系の不在ということがあります。フィードバック系のないシステムは、次に進むための基盤を確認できないし、次の進む方向性も見出すことができません。

それは、学会発表のような加工された情報に基づくものではなく、生のもの(実際のセッション、やりとり、現場)に基づくものである必要がありそうです。生のものに対してということの大切さを、自分は信じているのですが、どうしてなのかという点についてはもう少ししっかりと言語化する必要がありそうです。現時点で、文章にできるほど、言葉にできません。でも、この点は譲れない気がします。

言語化して説明できないところを基盤として、ディスカッションをするのも気が引けますが、このが重要なことだと見なせば、何が不在であるのかは自明なものとなります。

カウンセリングの実際を見る機会がないのです。ほぼない。人のカウンセリングを見る機会もない、自分のカウンセリングを見てもらう機会もない状態で、技術の向上、あるいは、技術の積み上げを、私は想定できないのです。

サッカーであれ野球であれ、その道の人は幾度となく人のプレイを見ます。そして、振り返るのです。最近であれば、自分のプレイもビデオに収めて見ることができるでしょう。このループこそが、貴重なフィードバック系なのではないかと思います。

フィードバックというと、スーパーバイザーや上司などからの評価やコメントを想像してしまうかもしれませんが、人のことを見るということ、自分のことを見るということも、フィードバックと見なしています。なぜならば、何らかの情報が返ってくるからです。

そして、自分のしていることをもう少し体系的に振り返るためには、スーパービジョンの活用がありますが、これも、活用されているとは言えないような気がします。この点については、昔に取り組もうとしましたが、中断してしまっているので、これからもっと取り組みたいと思っているこの頃です。

最後に、自分のクライエントからのフィードバックを毎回入手しようとしているかどうかも貴重なことになります。このフィードバックは、実に貴重な系統です。セッションの最後に、「今日のセッションは、〇〇さんにとって、どのようなものであったのか教えてもらえないでしょうか?」とほぼ毎回聞いていますが、これは、大きな学びにつながっていいます。

そして、すべてのクライエントに対してできるわけではないですが、カウンセリングが終結してしばらくしてから、クライエントに出会う機会を持てるときがあります。その時に、もらえるフィードバックは、また貴重なものです。

そう、ここまで書いて、必要なことが見えてきた気がします。フィードバック系をしっかりと確保しないといけないということですね。