ニュージーランドのスーパービジョン

先週、日本の大学に勤務する学生相談のグループが、ニュージーランドのスーパービジョンについて研究するために、ハミルトンを訪れていました。そこに同席する機会があったのは、私にとって、スーパービジョンのことを改めて考える場となりました。

つい最近、日本産業カウンセリング学会の関係で、米国のスーパービジョンについての本を読む機会があったこと、そして、そのスーパービジョンを受けたことがある人と話をしたことも、ここで考えるときの大きな要素となっています。

スーパービジョンのやり方としては、いろいろなやり方があるし、進め方があります。それは、それぞれのやり方の利点もあるでしょう。しかし、ニュージーランドのスーパービジョンの根底が、北米のものとは大きく異なっていることがあると気づきました。

それは、「心理援助職のためのスーパービジョン」の中で次のように述べられていることにつながります。

カリフィオとヘスは、「理想的なスーパーバイザー」の資質を検討する際に、さまざまな文献を参照しました(Carifio & Hess, 1987, p. 244)。この資質というものは、理想的な心理療法士と同様なものが、違ったかたちで用いられるのだと、二人は考えています。これらの資質とは、ロジャーズの共感、理解、無条件の肯定的配慮、調和、真正さ(Rogers, 1957)、コッシュの暖かみと自己開示(Coche, 1977)、そして柔軟性、気遣い、配慮、信頼、好奇心、あるいは率直さなどがあげられます(Albott, 1984; Aldridge, 1982; Gettermann & Miller, 1977; Hess, 1980)。

ニュージーランドでは、臨床家のWell-Beingをしっかりとスーパーバイザーが支えていくことが、スーパービジョンの根底にあるのです。

多くの場合、管理であるとか、教育、訓練という側面が際立って見えてしまいます。その側面が大切なこととして、扱うことに変わりはありません。しかし、その大前提として、スーパーバイザーが、カウンセラーをケアしていくということがあるのです。

ですので、ニュージーランドの臨床家は、自分の臨床にスーパービジョンが大切なものとして理解できるし、自ら求めることができるようになるというわけです。システム的に義務づけられているので、仕方なくという側面も付随しています。しかし、それでも、スーパービジョンが傷つき体験の場とはなっていないので、スーパービジョンに対して好意的な感覚を持てるというわけです。

一臨床家として、どちらのスーパービジョンを好むのかと言われれば、確実にニュージーランドのスーパービジョンです。管理的なスーパービジョンを受けるのは、抵抗が生じるような気がしています。

根底をどこに置くかで、どのようなものになるのか、大きく異なってくると思う次第でした。