「刑務所処遇の社会学 認知行動療法・新自由主義的規律・統治性」を読んで

年をまたいで読み終わった今年一冊目の本として面白かった『刑務所処遇の社会学 認知行動療法・新自由主義的規律・統治性』(平井秀幸(2015)世織書房)。面白かったので読後の感想を書く。刑務所での特に「薬物事犯者」の処遇、つまり薬物使用でつかまった人へ行われるプログラムの中で、現在CBT(認知行動療法)が日本・そして世界で非常に大きな位置を占めるようになったことについて、広範な視点での研究が行われている。僕が学んだのは心理学という畑違いではあるが、研究としての完成度の高さを感じさせられる一冊だった。

さらには、個人的に考えていたことについて、この本が示唆してくれるものがいくつもある。一つは、本書のフーコーの概念を用いた分析・研究が非常に誠実なものに見えることである。統治や合理性、規律テクニックといった概念を使って、心理療法(CBT)が現在の日本社会における処遇プログラム、という位置でどのように機能しているか/してしまっているかを精緻に描き出してくれている。

また、概念だけでなく、世界の動向―日本の情勢―現在の政策が出来上がるまでの歴史的過程―それが実際の実践にどう受け取られたか―実際の場で何が起こっているか、というマクロからミクロな視点を持っている。様々な社会のレベルで歴史的経緯を追おうとしていること、そうした過程を踏まえて、そこにいる人々の声を聞き取ろうとしていること、無意識に特定の立場に立たないようにと気を付けつつそうした議論が行われているので、非常に緻密で誠実な研究に思える。また、しばしば価値中立的であるという幻想が求められる「研究」という作業において、むしろ価値観を持たずに研究に臨むことが不可能であることを認め、むしろ自身の価値もテーブルの上に載せながら議論しようとする姿勢も真摯な研究として感じさせられた。

内容として、まず背景部分でまとめられているCBTに関する社会学的な議論と、研究を通して導き出された分析の結果は非常に示唆的だ。近年の、CBTは新自由主義や“新しい慎慮主義”的な規律テクニックとなり、人々に対して、リスクを社会化するのではなく個人化して(つまり、問題を社会が解決すべきものではなく、個人が取り組むものとして扱い)、自らの責任の下でリスクを回避するライフスタイルを人々に求めるものだ、といった側面からの議論がある(新しい慎慮主義とは「市場において自らの責任で消費的選択の自由を行使し、それに付随するリスク回避の(成功/失敗に関する)倫理的責任を個人的なものとして慎み深く引き受けること、そして、そうした振る舞いを合理的なものとみなすこと、それが「新しい深慮主義」の内実である」(p85)と説明されている。現在、素朴に「それが正しいよね」と見なされている規範を、名前を付けて扱えるようにしてくれる点で、この概念の紹介自体が非常にありがたい)。

著者は研究を通して、現在の処遇プログラム(の今回研究が行われた事例)において、CBTが「社会的なもの」の自己コントロールという方向性を持つこと(つまり、社会的な状況や困難を認めながらも、それを自己の選択によってリスク回避するものとして扱うこと)を述べ、それがもたらす解放性(自分の力でリスクを回避していけるかもしれない、という希望)と、そのためにこそ生じる困難性(真面目にリスク回避に取り組むほどに、リスク回避すべきものの多さや大きさが襲い掛かってくること)を描き出している。

もともと個人的にCBTというものに対して色々考えることが多かったが、こうした議論が、その批判的な視点をかなりクリアにしてくれたのでとてもありがたかった(ここで批判的、というのは否定とか拒否とか言う意味ではない。著者はかなり意識的にフェアな視点をとって、現場で起きていることを分析し、CBTが可能にしているものも、困難性をもたらしている側面も両方描き出し、最終的には現在のCBT的な処遇をより良い方向にアップデートしようという提言もしている)。

そして、もっと言えば、この著者の議論の仕方は、CBTに留まらない、全ての心理療法や心理学的な理論・実践について、それがどのような合理性・統治につながっているかという視点で考える土台を提供してくれる気がする。どのような理論や療法であっても、それがどのような合理性、どのような統治の仕方に結びつくものなのかという側面から逃れることはできない。これは、個人の内部に目を向け、素朴に立ってしまっている(社会的・政治的)立場を自明視しがちな心理学的なものに対しては極めて重要な視座であろう。そのような理論や実践が、どのような合理性や統治の仕方と結びついているのか、というのは、その理論を構成するトートロジカルな理論を持ち出して内的な妥当性を議論したり、比較したりするものとは全く異なるものだろうから。

それがどのような合理性にもとづいたもので、それが人(人の心)をどんなものとみなし、どのような自己統治に結びついているのか、特定の実践を特定の場所で行うことがどのような規律的統治となってしまっている可能性があるのか、このような視点は心理学という領域の中でもしっかりと議論されて行かなければならないと思う(文化心理学やディスコース心理学など、そういった視点を持つ心理学もすでにあるだろうが、主流派心理学はそのあたりの視点は薄いと思う)。ちなみに、この批判への応答として実証主義を持ち出したとしてもそれは十分ではないだろう。実証主義を持ち出すのであれば、実証主義がどのような合理性にもとづき、どのような規格化、規範化と結びついているのかが論じられるべきだと思う。今エビデンスというと、それ自体が価値中立的な(実際はそんなことない)基準の絶対的足場のように持ち出され、むしろそうした側面を霞ませるように持ち出されている気がする。ただ、それは特定のイデオロギーや、例えば経済的合理性といったものと親和的であるはずだ。

こうした、自身の行う実践やそれが基づく理論の合理性や統治の仕方を批判的に考えるのは足場の絶対性を揺るがすような作業でもあろうが、この方向は対話を開く希望でもあるだろう。各理論を構成する内的な妥当性や整合性の主張のし合いに留まる限り、異なる理論間の議論はあまり生産的にはならない気がする。心理学の理論というのは、だいたいトートロジカルに構成されているように思うのだ。この合理性という側面から議論する時、理論の有用性や妥当性の競い合いを超えた対話がようやく可能になるかもしれない。(途中から、この本の内容自体からは離れてしまったが、この本が提供する視点はそれくらい重要な気がする)

最後に、著者が研究を通して自身の価値観と共に提示した「包摂」の在り方の議論もとても大切なものに思えた。著者の議論は、現在の、包摂しつつ排除するような社会の在り方を乗り越えるような包摂の在り方を描こうとしてくれている。現在のこの社会の包摂とは、規律テクニックによる包摂を通して、むしろ人々が個別化・序列化される方向性を持つ。CBTを基軸に置いた処遇プログラムが要請する、「社会的なもの」を自己コントロールし、「リスク回避型のライフスタイル」を自己の責任の下に取れる人間像は、もちろんそれが可能となるという解放性につながることもある。しかし、社会的な状況等も含めそのようなライフスタイルをとても選択できない人、あるいはしたくない人も中には当然いるのだ。このような状況において、社会が要求する特定のライフスタイルに乗れる人は再包摂されるが、うまくあてはまれない人は、社会に戻されながらも実際には包摂されず、序列の下の方に排除され続けるような事態が生じるのである。

著者は、こうした人々が選択したい、自分が統治されたいと思える仕方・文化・合理性が多様であることについて次のように述べている。

「ライフスタイルの選択の幅が多様でありコンティジェントであるということの意味を真剣に受け取る必要がある」「個々人のニーズはきわめて多様であり、CBT的でない離脱・回復文化に承認を感じ、そうした文化に沿ったプログラムを受けたいと希望する者もいれば、薬物からの離脱・回復を目指す文化・プログラムそれ自体と距離を置いて社会生活を送りたいと思う(という選択肢を行使する)者も存在するだろう。ここで論じている「社会的保障」は後者のようなライフスタイルを含むあらゆるライフスタイルへの「社会的保障」だと考えられるべきである」(p.308)

著者は、CBTが持つ可能性や、それによって解放性がもたらされエンパワーされる人々を認めつつ、そうでない文化や合理性に承認を感じる人、それによって薬物からの回復・離脱に進める人にとっての多様なライフスタイルの選択肢の重要性をあげ、それのみならず、そういった処遇自体から距離をとるライフスタイルをも包摂する在り方を論じている。人々の多様性を「真剣に」受け取るとわざわざ著者が書いているのは、社会の周縁に追いやられる人が実際にいるような場で多様性を真正面から論じようとする姿勢のあらわれであろう。そして著者は、薬物の離脱や回復に(少なくともその時点で)のらない/のれない層までをも含み込んだ議論をしようとしているのである。ただ、これは諦めや無法を意味するのではない。

「特定の承認感情を有さない層にできることは、特定のプログラムへの参加や特定の市民性に沿った離脱・回復文化を実践的/政策的に押し付けることではなく、(豊富ではあるが“有限”の選択肢を提供したうえでその選択肢のいずれかにかれらが承認を見いだしてくれることを気負いなく待ちつつ)むしろそうした人々が(「困難性」を依然として引き受けつつも)社会内で健康で文化的に生き続けていくことができるような「社会的保障」を提供することなのである」(p313)

そして、著者は「安心して困難であり続けることができるための対応」という言葉を残している。この言葉は様々な意味で示唆的あるように思う。ライフスタイルには多様な在り方があり、その中で人々が承認を感じられるようなライフスタイルに出会えるような機会を多様に確保しつつ、一方で、そのいずれにもその時点で入れないと感じ、困難さを抱える人もまた、安心して困難な状態であり続けられるような、そのような社会保障(社会の在り方)を論じているのだと思う。

また、こうした政策を、著者が「「社会的なもの」の自己コントロールから、自己コントロールの「社会化」へ」という言葉で提示しているのも、重要なワードを提供してくれている気がする。「「社会的なもの」を自己コントロールしていく責任を個人化せず、社会化していく」というこの議論は、自己責任という言葉が隅々までいきわたりつつある社会で(それへの違和感を口に出せてもいまいち的確に批判しきれないでいるように見える今の社会で)、かなり的確なアンチテーゼのように見える。孫引きになってしまうが、この本の中で引用されているSen(1999)の言葉は印象的である。

「我々が責任を行使するために行使する本質的な自由は、個人的、社会的、そして環境的な状況に極めて大きく左右される。……生まれたときにすでに半奴隷状態にある農奴、抑圧的な社会によって窒息しそうな服従状態にある少女、所得を得るしっかりした手段を持たない土地のない不運な労働者はいずれも、福利の観点から言って恵まれないだけでない。責任ある人生を送る能力の点でも恵まれないのである。そのような能力は特定の種類の基本的自由を保有していることにかかっている。責任は自由を要求する。したがって、人々の自由を拡大するための社会的支援を主張することは、個人の責任の擁護であって、それに反対することではない」(Sen (1999) ”Development as freedom” Oxford university press)

「自由(選択)には責任が伴う」という言葉がある。しかし、ここでは逆に、「責任ある振る舞いや人生を送るためには、そもそもそのための自由が保障されていなければならない」という関係性を描き出しているのである。そして、その自由(自分で選択したり主体的に生き方を選べるような人々の状態)が、社会的に保障されなければ持てない場合がいくらでもあるのである。

こうやってまとめてしまうと、浮世離れした議論のように見えてしまうかもしれないが、筆者はこのあたり、なるべく地に足をつけながら、政策レベルでの実現可能性も意識しながら議論している。

この社会を考えて行くうえでも、カウンセリングというミクロな実践を異なるディシプリンから見つめ直すという点でも、学ぶところの多い一冊だった。

横山克貴