世俗的なところを出発点とするか、倫理を出発点とするか

「対話型組織開発」と「組織開発の探究」を読み進めてきて、ポスト構造主義あるいは社会構成主義がいかにこの領域にとっても重要なことになってきているかについて、多少なりとも理解を進めることができたような気がしています。

 

しかし、ある言葉(「人材開発は100%経営のためにある」)が引っかかって、そこからいろいろと考えているうちに、ポスト構造主義あるいは社会構成主義を検討していくと必然的に見えてくるであろうと思っていたこと、ナラティヴ・セラピーの文献では実に重要視されていることが、不在であることに気づきました。

 

それは、ポリティクス(政治学)そしてエシックス(倫理)です。それは、ものごとをどこから検討すべきかという「出発点」あるいは「基盤」や「原則」を提示してくれるものです。

 

マイケル・ムーアの「世界侵略のススメ」でいくつかその「原則」の重要性を垣間見ることができます。麻薬の使用を罰する法律を廃止したポルトガルで、マイケル・ムーアがインタビューした警察官が、マイケルに米国で「死罪は廃止すべきだ」と訴えます。なぜならば、たとえ法の下であったとしても、人が人の命を奪えるとする限り、最終的に人の尊厳を維持することはできない、という主張です。

 

そして、大学教育を留学生まで含めて無償であることを維持するスロバニアでは、有償化を政府が検討し始める時に、デモが起こりました。なぜなら、教育とはPubulic Goodsであり、そこで儲けることができるということ、大学生を借金漬けにして世に送り出すことは、倫理的ではないからです。このビデオは、オススメですので是非見てみてください。ただし、異国の夢物語、理想論として片付けて欲しくはないと思っています。

 

ものごとを金銭的なもので見ようとする姿勢を世俗的であるとしましょう。この視点は非常に現実的です。今日、生きていくために必要なことです。

 

ところが哲学、倫理、原則は、世俗的なものからはなかなか見えません。なぜなら、私たちの「今日」の生活にはあまり直結してないように見えるからです。今日や明日の利益にはつながらないと言うことです。

 

しかし、長い目で見ていくと、哲学、倫理、原則は、私たちが生きていく社会のあり方を作り上げていくことに気づけます。つまり、今日の私のことではないかもしれませんが、自分の子どもや孫のことだと言うことです。つまりは、どのような国にしたいのかということだと思うのです。

 

組織開発や人材開発の話だけでなく、対人支援の話にも共通なのですが、自分たち支援者側の実践は、お金を出してくれるパトロンの意向だけで左右されてはいけないはずです。そこでだけで、正当化されてはいけないのです。なぜならば、時にそれは倫理的に問題をはらんでいる可能性が生じるからです。

 

では、倫理的なものとはなにか? 倫理という言葉で何を言いたいのか? そこを「ガチ」で対話する必要がある気がするのです。

 

たぶん書籍や論文がすでにあると思うので、時間がある時に読んでみたいテーマは「組織開発と倫理」です。