住み慣れた場所を離れることとは

今日は、ナラティヴセラピーからそれますが、 住み慣れた場所を離れることとはどういうことなのか考えていました。

世界中のどこにいても人生の時間を使っているのは同じで、そこで何を感じどんな新しい感覚を得られるかというのは、すごく個別的なことだなと思います。「何のために1年近くニュージーランドに行くの?(あるいは「なんのために来たの?」)」と何度も何度も聞かれるとき、それは「何のために日本でこの1年を過ごすの?」という質問と同じくらい答えるのが難しいです。
同じことなのに、変化を起こすときだけ、みんな疑問に感じるみたいです(私も含めて)。 でも、実際は場所とか環境を変えて、その期間を過ごしている、というだけ。うまく伝わるでしょうか。「海外に行く」「ワーキングホリデーに行く」という漠然とした言葉のまま質問をされるので、答えに窮して、もう少しその言葉を具体的にして考えたいと思うようになりました。

今、私がしていることを言葉にすると、30-31歳の期間を、ニュージーランドという今まで違う地域、また家族や友達のいない場所で、いろいろな国の人が混じりあう環境で、勉強したりバイトしたり、新しいことに飛び込んで、人間関係をつくったりする、ということ。
その中で、はじめは旅行の延長だったのが、友人知人が増え、バイト先、ボランティア先、クラブ活動のつながり(ちょっとしたしがらみでもある)も増え、日常になっていきました。そうなると、今まで、ひとつひとつ新鮮に感じていた人とのやり取りや自然がありふれたものになってきました。
日常になったからこそ、見えるものも増えましたが、新鮮さはどうしたって失われていきます。日本で過ごしているときに、近くなっていきます。
そういう過程を経た今、こうやって、場所を変えることで得られるもののひとつは、いろいろなことが鮮明に感じられることなんだな、と思います。 ここで私は、20歳前後の頃のように、生きるとか、物事の意味とか、についてよく考えています。新しい物事が刺激を与えて、今まで構築した、生きるやり方とか、物事の意味とかを、新しくする必要に迫られたからでしょう。滞在当初は、もっと子どものように、見たことのない花や、急に寒くなったり暑くなったりすることや、違うコミュニケーション方法に、ひとつひとつ驚き、ときには怯え、ときにはすごくエネルギーが沸いてきました。それは旅行の段階でした。今は、日常に近くなって落ち着いていますが、やはりまだ刺激を受け続けています。

今までイメージしていた以外の生き方がある。1回生活する場所を自分で選んでみたら、住む場所って世界中から選べるんだ、と知りました。さらに、今、自分の持っているお金や健康度合いや周囲の人の力があれば、何ができるだろうか、と考えると、外国で暮らすのも、大阪でも、山奥でも、家族と暮らすのも、夫と2人で暮らすのも、1人で暮らすのも選べることなんだと驚きました。有り金はたいて大きな家に住んでもいいし、必要最小限の物だけで暮らしてもいい。週6日仕事してもいいし、2日とかだけ働いたり、貯金が尽きるまでふらふらしていることもできる。何が欲しいかを自分で決めて、その手段を選んでいけばいい。

どこにいても、時間が過ぎるのはいっしょで、その体験は本当に人それぞれ違うものだけれど、場所が変わると、物事を鮮明に感じられて、新鮮な考え方が自分のなかに生まれるようです。「何のためにニュージーランドに来たのか」の答えは、このあたりにあるようです。