ナラティヴ・セラピーの専門性

今日はいつにもまして、ぐるぐると思考の流れるままの拡散的な話です。(けっこう推敲したけど、今の時点で言葉にできるのはここまで)
ナラティヴ・セラピーをはじめ、社会構成主義・ポストモダンのアプローチについて勉強していくと、そこには否応なく「専門性」というものをどうとらえるかという話が出てきます。これについて、自分の行きたくない方向性はありつつ、もやもやしているところもありつつ、という感じでしたが、最近の学びと本を読んでいて、もう少しすっきりとした言葉になりそうな気がしています。

もともと日本で臨床心理学の勉強をしていたので、その時に習った専門性というのは、「クライエントの状態をしっかりと聞いて、把握、評価でき、理論や療法の知識と照らして適切な介入ができる」という、ポストモダンの人に言わせればモダニズム的なものでした。それに対して、社会構成主義・ポストモダンの立場では、この意味での専門性が否定されます。基本的に、専門的知識もディスコースの一つとして考えれば特権的な力などなく、むしろそれを絶対とみなすことで人々が周縁化される可能性があるし、それぞれの人が持っているローカルな知に接続することの重要性を踏まえるならば、専門家性(専門的な知識や態度)を排して、対話の場を提供することが重要だということです。(日本語訳されたオープンダイアローグの本の帯に『あなたは専門性という鎧を脱ぎ捨てられるか』みたいな言葉があったのが思い浮かびました)

ただ、ここで一つもやもやするのが、専門家的立場を脱ぎ捨てたとき、カウンセラー・セラピストはどのような存在として面接室に存在できるのかということです。そこには本当に、何の専門性もなくなるのだろうか。だとすれば、もはや一般の人がだれでも面接をしたっていいことになるし、セラピストはただの人間になればいいから、その訓練以外いらなくなる気がします。でもそんなことはなくて、面接の場での会話というのは普段の日常会話とは明らかに異なる非日常的なものな気がします。また、そこでいい会話をするには、ちゃんと勉強も練習も必要な気がします。と考えると、そこにはすくなからず、普段の会話とは違うものがあり、セラピストはそれを提供するようなことをするという点で、なんらかの専門性を持っているはずです。でも、「専門性という鎧を脱ぎ捨てる」となると、それすら持ってはいけないという、言葉にすると訳の分からない事態に陥ります。
そこにはおそらく、専門性という言葉をさらに切り分け、新しい意味での専門性というものを形作る必要があるのだと思います。また、その違いを切り分けることが、ナラティヴと、単なる相対主義的態度を分けることにつながる気がします。

最近思うのは、ナラティヴ・セラピーの世界観というのは、物語や対話というものを、ある独特な世界観と結びつけているような気がしています。それがどのような世界観かというと、以下のような感じです。
基本的に、今あるこの世界は、すでにいろいろな面でunfairで、不均衡な力関係にまみれている世界です。あるコミュニティがあれば、そこにはある種のマジョリティーやマイノリティーが、潜在的に多様な形で生じます。肉体的な力や社会的な力、生まれ持った資質や性別、人種、見た目、家庭環境など、あらゆるパワー関係が何層にも入り乱れ、それらはディスコースを形成し、そのディスコースに様々な力を付与します。しかもそれは歴史的に構築されてきたものですから、生活世界に深く根を張っています。そして、人はその中に生れ落ちて、色々なパワーにからめとられながら生きているわけです。
悩みを持っていたり、相談に来る人というのは、多くの場合、そうしたパワーの不均衡の中に置かれています。いわゆる「問題」というのは、そのunfairな力関係の中で存在感を持ったもので、悩んでいる人にとってはそもそも分が悪い相手なのです。しかも、問題はそのunfairな力が行使されることで維持されていきます。ちなみに、マイケルがフーコーを通して見た、「問題を内在化し、常に自己監視するよう人を規律化する」というこの世界構造は、このようにunfairなものだったのではないかと思います。

おそらく、ナラティヴ・セラピーは、このフーコーからつながる世界の見方を出発点に理解する必要があるのではないかと最近感じます。そこを抜かして思考を進めると、物語や対話という言葉はどうも上滑りをして、相対主義や、認知の書き換えのような、浅い理解のされ方に陥らざるを得ない気がします。現象学が、絶対主観から出発したように、ナラティヴ・セラピーは、この現にある不均衡な力関係が存在する潜在的にunfairな世界を前提としているような気がします。
要するに何が言いたいかというと、クライエントが相談に来たとき、そこには、「問題を内在化し、人を客体化・規律化する世界」とパラレルな形で、すでに問題とクライエントの間で不均衡な力関係ができていて、クライエントは問題の影響をきちんと把握することも難しいようなunfairな状態にあるのだと思います。さて、このような世界理解を設定した時、より良い会話の一つの在り方の定義を「fairな地点から、問題も、それ以外の領域も豊かに探索することができる」ということに設定できると思います。

ここで話を専門性に戻すと、そこには大きく3つのレベルを設定できる気がします。
①モダニズム的専門性に立つ
モダニズム的な、特権的な知識は、基本的に、「問題を内在化し、人を客体化・規律化する世界」の側に属するものなので、このような態度で接したら、当然そこで生まれる会話は、その世界の中で進むことになります。その中で解決することがあるならそれはそれでいいのでしょうが、このゴール地点にはフィットしません。クライエントもセラピストもunfairな分の悪い関係性の中で、問題を相手に真正面からやり合わなければなりません。当然、それ以外の領域の探索などできるはずもありません。

②モダニズム的専門性を脱ぎ捨てただけ
セラピストがこの「モダニズム的な専門性」を脱ぎ捨てた場合どうなるでしょうか。少なくともセラピスト自身は問題に対してある程度fairな位置に行くことができます。純粋な一個人として接する、ということが可能なら、積極的にクライエントにunfairを押し付けることはなくなるでしょう。しかし、この世界はすでに不均衡な力関係にまみれていて、クライエントは問題に対してunfairな立ち位置に追いやられている状態です。セラピストがunfairを押し付けなくても、クライエントは自力でそこから抜け出さなければなりません。しかも会話は共同構築するもので、かつ問題に困っているクライエントの話し方は最初から、問題のunfairさがしみ込んでいるものですから、クライエントに寄り添おうとすれば、セラピストもそれに取り込まれるかもしれません。逆にそうせずに、fairな場にとどまり続ければ、もしかしたらクライエントから見て、解ってもらえないという感じになるかもしれません。もしかしたら、unfairな問題で苦しんでいるクライエントの前で、セラピストが純粋な顔をしてfairな会話ばかり繰り広げようとしていたら、それもまた不誠実というか、個人的にはセラピストの自己満足のように感じます。
ちなみに、個人的には問題を完全に無視する、問題以外の話だけをする、というような立場は、①か②に入るような気がします。問題のunfairさに引きずられることを恐れて、セラピスト側の予断だけで問題を無視する、問題以外のところだけ見る、というのは、逆に言えば、問題の力をめちゃくちゃ受けていて、問題やそのそばの領域を探索できないし、fairな場を提供できているわけではないと感じるからです。

③fairな場を提供するという専門性
なので、「fairな地点から、問題も、それ以外の領域も豊かに探索」することを目指すなら、セラピストには、そのような会話をクライエントに提供するような、そのような術が求められるのではないかと思います。それは、セラピストが、専門家的な在り方や知識を持ち込まず、しかしクライエントが問題の引力を受けずに語れるよう、スペースを提供するような仕方のことです。セラピストは、自分のスタンスに対してだけでなく、クライエントを招く場所、会話の質というものにより積極的な形でコミットすることになります。
そして、ナラティヴ・セラピーには外在化する質問・会話法という、かなり具体的なレベルでの技術が存在しています。個人的には、これは他の社会構成主義的なアプローチとは異なるように思えます(まぁ他のをよく知らないですが)。多くの社会構成主義的なアプローチにおいては、そのセラピストの在り方(専門家的態度はダメ)は語られることはあっても、セラピストがどう言葉を使うか、というところの具体的な領域の議論はあまり見かけないように思います。もちろん、そこをしっかりと考えているところもあると思います。アンティシペーションダイアローグとかは、そんな気配を感じています。また、専門家的態度を捨てた身で、どのような言葉を使うかというのは、社会構成主義的アプローチのどのセラピストも考えはすると思います。ただ、その具体的な術・語り方についての話がなければ、それは個々のセンスや経験を頼りにしていくしかないように思います。
最近、ホワイトやエプストンがすごいなぁと思うのは、その具体的な術の部分について「外在化する会話法」というものを提示しているということです。それは、フーコーとつながったマイケル・ホワイトが、この社会の力関係の不均衡さ、そして相談に来るクライエントが置かれた、問題との力関係の不均衡な状態に対して、unfairへの敏感さみたいな感覚を持っていたからなのではないか、という気がします。

この議論の終着点はなかなか見えにくいのですが、ここまで来た時、実はセラピスト・カウンセラーの専門性はと何か、という問いがもう一歩進む気がします。それは、知識や評価、教育の使い方という専門性ではなく、ここまで書いてきたような会話の場をクライエントと構築していくための、会話・質問・語り方・かかわり方の術・技術についての専門性なのではないかと思うのです。
ナラティヴ・セラピーにおいて、専門性とは、クライエントに与えられる知識としてではなく、クライエントが十全に自身の知識・物語を探索できるようなスペースを提供する、技術に宿るのではないかと思います。
これまで出会ったナラティヴ・セラピスト達は皆、専門知や専門家的態度を拒否しながら、どこか自分の専門性を確信していたように感じています。
それは、単に、ニュートラルに、中立の好奇心をもって、話を聞いていけば、クライエントが勝手に十全に喋ってくれるというものではなく、クライエントがそうできるように自分の質問・会話の技術を磨き、それを提供していくことを専門性として見出して、どこかでそう感じていたからではないでしょうか。

こうしてみていくと、おそらくこれも、専門性という言葉の一つの側面だという気がします。他にも大事なものはある気がします。ただ、この部分を大事だと言葉に出しておくことは、個人的な学びの上で大事な気がします。
fair/unfairというワードが自分の中でホットなので、それに頼って議論を進めてしまった感がありますし、ホワイトやエプストン、フーコーは当然もっととても遠いところまでいっているんだと思います。書きながら、ちょっと頭でっかちな感じになってしまっている感じもしますし、これに縛られすぎるとfair/nfair以外の重要な部分を見落としてしまう気がします。
ただ、一つ持っておきたい、もう少し考えたいこのような理解が今頭の中にあります。
ややこしい書き方で、最後まで読んでくださった方がいるかわかりませんが、そんな感じでした。次は、もう少しライトなことを書きたいです。

Katsuki