ナラティヴ・セラピーを学んでいく時、やっぱりマイケル・ホワイトの本を読むことは大事だなぁと、それを読みながらしみじみと感じる。
初めてマイケル・ホワイトの本を読んだのは、大学の学部生時代に、図書館から借りて『ナラティヴ実践地図』を読んだときで、当時は(当時なりには「ふんふんなるほど」と読んでいたが)おそらく大切なことはあまりわかっていなかったと思う。
正直、マイケル・ホワイトの言葉は、難解というのとはちょっと違うものの、不思議な読みにくさがある。ただ、最近それが読めるようになってきた感覚があり、そうすると不思議なことに、その独特の書き方が、非常に大事なものとして頭に入ってくるように思えてくる。そして、その独特さの一つとして(あくまでも一つ)、マイケル・ホワイトが、自分の使う言語の使い方に、非常に拘っていた、ということがなんとなくわかってきた気がする。
今年5月にNZで開かれた、ナラティヴ・セラピーのワークショップで、Gayleという講師が「今回の私の話で、もし一つだけ持って帰ってほしいものをあげるなら、carefulな言葉の使い方について持って帰ってもらえたらと思う」というようなことを言っていたのが、なんとなくずっと心に残っていたのだが、この「言葉のcarefulな使用」というものについて、マイケルの本を読みながら、だんだん結び付いてきたことがある。
それについて少しまとめてみようと考える。ただ、それについて考えるにあたり、マイケル・ホワイトの言葉を、要約して手短に分かりやすくしてしまう、ということには、最近非常に抵抗を感じているというのがある。なんとなく、頭の中に浮かぶイメージの中で、「マイケル・ホワイトはきっと慎重に言葉を選びながら、自分の思考過程と向き合って、それ自体を表現しながらこの文章を書いていたんだろうなぁ」といった具合になっていて、おいそれと自分の理解する要点だけ切り取ってしまうことは、失礼で、無遠慮なことのように思えてしまうからである。
なので、長くなると知りつつも、「言葉のcarefulな使用」というものを、マイケル・ホワイトの本のどこに感じたのか、その一部を挙げてみる。
最近読み進めているのは『セラピストの人生としての物語』で、3分の2ほど進んでいる。この本では、そもそも最初に、『言語使用に関する覚え書き』という項で、マイケル・ホワイトが自分自身の言葉の使い方について触れている。
“ポスト構造主義研究は、カウンセリング/精神療法文化において疑いの余地なく考えられていることの外側で考えることを、私たちに要求する。それらは、人間行為や人生の問題について考える段になると、あたりまえとされている用語ではない記述によって考えることを要求する。つまり、見慣れない記述になるわけである。
(中略)本書の主題となっているものが、ポスト構造主義の思想や実践の探求である以上、主題が人生や人間行為である場合になじみのある用語ではない記述用語を、私はここで使うことになる。読者にいくらか困難を強いることになるのは、承知している。『セラピストの人生という物語』pp.16”
“私の願うセラピー実践やセラピー概念を表現することが、慣例的な話し方や書き方によって可能であることは、決してあり得ない。本書では、慎重に考えた末、特定の記述のみを選択した。私は、このような記述に、カウンセリング/精神療法文化においてあたりまえとされている通常の用語では伝えきれない正確な意味を託した。読者の中には、それらのいくつかをジャルゴンだと考える人がいるかもしれないが、それらを、カウンセリング/精神療法において慣例的言説となっているもっと慣れ親しんだ言葉や言い回しに翻訳し直すことのないようお願いしたい。なぜなら、そうすれば、意味が変わってしまうからである。(『セラピストの人生という物語』pp.18)”
本の最初の18ページ目で書かれたこの前置きは、非常に切実で誠実な言葉であるように見える。なぜ自分が読者にはなじみのない言葉を使うのかの説明である。そのうえで、マイケルは、読者の慣れ親しんだカウンセリング/精神療法の言葉に「翻訳し直すことのないよう」にと「お願い」をしている。なぜなら、そうして早合点して、自分があらかじめ持っている、カウンセリング/精神療法の言葉や理解を持ち出してしまえば、その意味が変わってしまうから。
本を読むというのは、たいていの場合、教えられたり習ったりすることなくしてきた、自然な行為である。けれども、このお願いを頭の隅に置きながら読み進めていくと、「本を読む」という行為自体も注意深く行っていくようになっていく気がする。それは、カウンセリングで、相手の言葉を相手の言葉のまま理解したいと思うのに似て、マイケル・ホワイトの言わんとすることをなるべくそのまま理解したいと思うからだ。
言葉というのはあらかじめ社会と文化の中にあって、その意味がだいたい共有されていて、そのためにそれを使って話すことができる。ただ、それは一方で、言葉は出来合いのもので、完全に共有されている意味などなく、それでもそれを使わずには話すことはできないものでもある。自分の表現を十全に伝達してくれるような言葉はだいたいが、ありそうな気がするのに届かないようなところにある。結局は言葉を尽くして語る以外にはないものの、何かをちゃんと伝えようと思えば思うほど、受け手にもその努力が必要になってくる。けれど、特に専門家的領域は、ある言葉の意味は、日常用語以外に厳密化されているし、受け手もそれに慣れてしまっている。
だからこそ、マイケルは自分の言わんとすることを注意深く書いたうえで、読者にもお願いしないといけない領域があることに気付いていて、ちゃんとそれをお願いしているのだと思う。
ちなみに、この言語使用の覚え書きの最後では、さらにこんな言葉もある。
“本書で私は、「セラピー」とか「治療的会話」という用語を頻繁に使っている。それらは、諸個人が心配/問題について相談を求め、「セラピスト」と呼ばれる諸個人がそれにこたえる文脈において起こったことがらを記述するものである。しかしながら、私は、本書の主題となっている、仕事や人生における在り方を記述するものとして、それらの用語に満足しているわけではない。(『セラピストの人生という物語』pp.18)”
「セラピー」とか「治療的会話」とか「セラピスト」とか、やっぱりどうしてもその言葉を使わなければいけないことはあるようだ。ただ、それに「満足しているわけではない」というのは、いかにもという感じである。
同じような言明はほかにもある。例えば、スーパーヴィジョンに関して述べた章である。
”本章のタイトルには、「スーパーヴィジョン」とある。この用語は、自分の仕事について助言を求める人(ここではセラピストと呼ぶ)と、その助言を提供する人(ここではコンサルタントと呼ぶ)との関係を説明するものだが、本章で記述する実践には、まったく不適当なものである。スーパーヴィジョンという用語は、ヒエラルキーを連想させる。すなわち、一方の当事者の知識が「上位の」視点(スーパーヴィジョン)の地位を割り当てられ、もう一方の当事者が、仕事とセラピスト・アイデンティティについてはその上位の視点(スーパーヴィジョン)に従う、という関係が連想されるのである。
スーパーヴィジョンに代わる用語として、コ・ヴィジョンという用語が度々提案されてきた。スーパーヴィジョンという概念に結び付いた、知識のヒエラルキーと硬直した権力関係の解毒剤を提供する実践の構造化に貢献することが、この用語に期待されたのである。コ・ヴィジョンが、仕事について助言を求めるセラピストと、助言を提供するコンサルタントとの関係について、平等主義的な説明を提供するのは、事実である。また、スーパーヴィジョンという概念に結び付いた知識のヒエラルキーにも挑戦している。それにもかかわらず、コ・ヴィジョンという用語が、助言を提供する責任を負う人から誰かが助言を求めるという関係の記述に用いられる場合、この用語にも問題は生じるのである。(中略)コヴィジョンという用語は、このような特権によって打ち立てられ権力関係、つまり、コンサルテーションの結果に明確に影響を与える権力関係を覆い隠す炉いう点で、問題をはらまざるを得ないのである。
私はこうした権力関係を多いかくすのは、危険なことだと信じている。(『セラピストの人生という物語』 pp.228『スーパーヴィジョンという権力関係』)”
スーパーヴィジョンという言葉は、セラピー文化にいればだいたい”通じる”ものである。ただし、言葉は文化にどっぷりつかっていて、「スーパーヴィジョン」という言葉も、「上位の先生から下位の我々が手ほどきしてもらう」的なニュアンスが入り込んでいる。しかも「スーパー」などという言葉の構造的にも、権力関係をほうふつとさせる。そうしたニュアンスに挑戦したい時に、やはりこの言葉を使うことは、やろうとすることの枷となってしまう気がする。ただ、一方で、コ・ヴィジョンという言葉にもマイケルは危機感を抱いている。それは、手の届かない理想形としては適切かもしれない。ただ、「相談の仕手と受け手の平等」のニュアンスだけを名称に盛り込んだとき、その名前が、現実的に生じうる権力関係(金銭授受、組織構造、諸々の文化装置)を覆い隠して、そこへの意識に対して自分たちが鈍感になってしまうのではないかという危機感だ。
「スーパービジョン」「コ・ヴィジョン」どちらの言葉も、それぞれに、マイケルの「言わんとすること」とのずれが生じてしまう。そして、結局マイケル・ホワイトは、これらに代わるような言葉を作ったりもしていないように見える。ただし、この2つの言葉が持つ、「言わんとすること」とのずれを通して、読者は「言わんとすること」に接近することができる。こういう言葉の使い方も、ずいぶん注意深いものに見える。
それと、もう一つ思うのは、マイケルが言おうとするようなことを表す概念の持ち方というのを、今のこの世界はどれくらい持てているのだろうかとも思う。今この世界の言葉と概念の用いられ方やその関係は、非常に一対一対応的に厳密であろうとしている気がする。そこにゆるやかさや場面によって様相を変えるような間はもちにくい。そういうものを、一つの概念や言葉に押し込めてしまうということは、本末転倒で、それは「意味が変わってしまう」。マイケル・ホワイトの文章が慣れないと読みにくいというのは、もしかしたら、その本自身が、そういう言葉の使い方の結果なのかもしれない。
『セラピストの人生という物語』では、こういう言葉への敏感さと、注意深く言葉を使うというのがどういうことかについて、マイケル・ホワイトの言葉の使い方によく出会うことができるように思う。例えば、定義的祝祭についての章では、アウトサイダーウィットネスのリフレクティングが、「カタルシス」や「自己開示」という心理学的な言葉が表すものと違うことに言葉を尽くしている。
それに、何より、カウンセリングと呼ばれるものについて書かれている本でありながら、私たちが普段「クライエント」と呼ぶものに関する固有名詞がほぼ見られない。「相談者」とか「クライエント」とか、あるいは「患者」「被援助者」とかいう、他の多くの本で当たり前に使用されている様々な名付けがこの本にはほとんど書かれていない。代わりにあるのは、「会話の中心にいる諸個人」とか「相談を求める諸個人」とか「精神疾患と診断された諸個人」とか、そういう言い方をしている。この注意深い言語使用というものを通してみると、マイケルの見ていたものの一つに触れられる気がする。それと、不思議なことに、このことに気づいてから、この本はさらに読みやすくなる。
最後に、これは『ナラティヴ・プラクティス 会話を続けよう』からの引用で、そこにはナラティヴ・セラピーという言葉自体への注意深い姿勢が見て取れる。
”著作であるとか教育において、私が常に、人生や実践展開に関する文脈を考えることの重要性に注意を向けるよう主張してきたにも拘らず、往々にして私は、自分が提唱していることについてのきわめて還元的な説明を見聞きする。たとえば、以下のような結論が導かれているのである。私が「人生はテクストに過ぎないと提唱した」とか、「現実を言語に還元した」とか、「ナラティヴを言説と(それが言説に還元されるまで)混ぜ合わせた」とか、「なんでもありの道徳的相対主義を提唱した」とか、「反現実主義者である」とか「構造を意味する個人の中に問題を位置づけることによって、現代的西洋文化の個人主義と隔離主義を再生産した」等々と。
私が提唱した治療実践に関する上記結論のいくつかは、逆に、そのような実践の全体を「ナラティヴ・セラピー」と同定した結果に過ぎない。現時点でそのような弊害があるのであれば、「ナラティヴ・セラピー」という名称は取りやめ、その代わりに、人々の人生の文脈的複雑さを主張する実践に注意を向ける別の名称が確立されるべきであろう。しかし、ナラティヴ・メタファーは私にとって適切であり続けるであろう。なぜなら、人々が文化につながれるのはストーリーを介してだからである。(『ナラティヴ・プラクティス 会話を続けよう』 pp.8)”
自分の実践をある言葉でくくって同定するということは、どうしてもなにか固定させてしまうようなニュアンスを持ってしまう。スーパーヴィジョンとコ・ヴィジョンのはざまで見たようなゆるやかな意味の領域を表しきれないということが出てきてしまう。名前がいろんなイメージや、要約されたものを背負い込んでしまうので、誤解や単純化という行為にさらされやすくなる。その厳密化は、それこそ規範的言説が追い立てて見せる幻想にすぎないような気もするし、言葉というものが不可避に持つ性質のような気もする。
実は、ここで言わんとすることは、まだ自分で読み取り切れていないような気もしている。マイケルがここでいう「弊害」とは、実践を「ナラティヴ・セラピー」と同定することで、「そう言いたいわけではない」還元的説明に落とし込められてしまうことか、それとも各批判が言っているような事態を招いてしまうことか。いずれにせよ、マイケル・ホワイトらがその実践をナラティヴ・セラピーと同定してくれたからこそ、それに出会うことができるようになったという点で、非常に個人的には同定してくれてよかったというのがある。
同定することで人がそれに出会いやすくなるとか、アクセスしやすくなる、扱いやすくなるというのはとても大きな力があって、それはいい意味で効果を発揮することもある(例えば、カウンセリングでも、自分の価値について言葉で同定できるとか。あるいは問題の名づけも)。ただし、その同定は、単純化とか、イメージの誘発とか、言われてないものまで実体化させるとか、厳密化を迫り、二択を迫るような批判も生じてくるとかいう事態にも開かれてしまう。まぁ、それはある程度仕方ないという気もする。それよりも、最後のナラティヴという言葉へのマイケル・ホワイトの在り方もまた、印象深い。
マイケル・ホワイトは自分が注意深く行ってきた実践で大切にしてきたものを、ナラティヴ・セラピーと名付けて同定してみて、そこには、もっと適切な名前があれば変えてもいいと思うという注意深さもある。ただ、そういいながらも、その言葉とメタファーが持つ意味について、それは「私にとって適切であり続けるであろう」というように、力強い信頼を託しているように見える。言葉を注意深く扱うからといって、言葉を信じていけないわけでもない、という、”ゆるやかな”在り方は、生意気にもこう言ってよければ「マイケル」っぽいなという気がするし、自分も持っていたい気がする。